レイテ島慰霊の旅(密林に眠る数えきれないほどの悲劇の物語)

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マクタン空港を飛び立ったセスナ機は眼下に広がる波のない穏やかな内海を横切り、かつて日米両軍が死闘を繰り返したレイテ島へと向かいます。

セブからレイテ島までフェリーだと3時間はかかりますが、セスナ機をチャーターすれば45分ほどのため日帰りも十分可能です。

あの日のレイテ

レイテ上空を飛びながら操縦桿を見つめていると、およそ75年の歳月を飛び越え、思いは1944(昭和19)年へと向かいました。その年の10月20日から25日にかけて、日本連合艦隊は残っている戦力のすべてをつぎ込み、米機動艦隊と最後の決戦をレイテ沖にて展開しました。

軍の記録上、米艦艇への体当たり攻撃を敢行する神風特別攻撃隊が出撃したのも、レイテ沖海戦がはじめてです。まだ二十歳そこそこの若者たちは、上空から一気に下降し、米空母の甲板を目がけて突撃しました。急下降のために、操縦桿を一気に押し倒すときの彼らの心境はいかばかりであったことか……。

平和な時代を生きる私たちには、その当時の彼らの思いを正確に感じとることなど、とてもできそうにありません。それでも、国を守るため、ひいては故郷に暮らす父母や兄弟姉妹、妻や子供を守るためとはいえ、死に際した彼らの思いが、そのような英雄譚(たん)だけで語り尽くせるほど単純なものでなかったことだけは想像に難くありません。

家族に向けた哀切の情、生への執着、使命感と共に内在する自分が犠牲になることへの理不尽な思い、そうした諸々の思いが交錯するなか、それでも操縦桿を一気に押し倒し、彼らは自らの一命をかけて敵艦を屠(ほふ)ることに身を捧げました。

自己の命を犠牲にしてまでも他を生かすという発想は、日本の古(いにしえ)の時代より培(つちか)われてきた崇高な理念です。しかし、彼らをそうせざるを得ないほどに追い詰めたものは明治以降、無理を重ねて富国強兵につとめた日本の歴史そのものであったともいえるでしょう。

当時の世界を支配していたのは欧米の白人です。白人が有色人種を支配するという世界秩序が、すでに完成していました。

そうした世界の趨勢(すうせい)に、有色人種の国家としてただ一カ国抗ったのが日本でした。経済的に立ち後れた日本が欧米列強に追いつき、追い越すためには、無理を通さなければいけないことが多々ありました。

資源に恵まれず、経済規模の小さな後進国に過ぎない日本が、白人優位の世界秩序に異を唱え軍事的に対抗するためには、国民一人ひとりの忠誠心や精神力に頼らざるを得なかったのです。

十死零生という世界の軍事史にも例のない特攻が繰り返されたのは、刀折れ矢尽きた挙げ句に「最後に残された頼みの綱が精神力よりない」、といった刹那的な状況に追い込まれたからこそです。

特攻が行われたのは空だけではありません。海では人間が魚雷に乗り込んで敵艦に体当たりする回天特別攻撃隊が組まれ、陸では弾薬が尽きた日本兵が銃剣を手に米軍の陣地に突撃するという斬り込み隊による特攻が繰り返されました。

1944年後半以降、日本軍の作戦のことごとくは陸海空からの特攻がなければ成り立たない惨憺(さんたん)たる状況を呈していました。そこには数え切れないほどの悲劇の物語が織り込まれています。

そんなことに思いを馳せていると、早くもレイテ島が見えてきました。上空から見下ろすレイテ島は、深緑に包まれた神秘的な佇(たたず)まいをたたえています。

上空から見たレイテ島、脊梁山脈が島を分かつ様相がはっきり見てとれる。

しかし、今から75年前、レイテ島はまさに地獄でした。日本兵にとっても米兵にとっても、そしてレイテに暮らすフィリピン人にとっても、当時のレイテは地獄の島以外のなにものでもありませんでした。

レイテの戦いに投入された日本兵は、およそ8万4000人です。そのうち生きて日本に戻れた将兵は、わずか2400人ほどに過ぎません。実に8万人以上、率にすれば97%の日本兵が、レイテ島にて散華したのです。

「あれがカンギポット山です」と、セスナの進路の左手を石田さんが指し示します。頂上に裸岩が剥き出しとなったカンギポット山は、日本軍が最後に集結した場所です。

やがてオルモック平野が眼下に広がり、北には第一師団が激闘を繰り広げたリモン峠の山並み、南に日本軍と米軍が揚陸したオルモック湾が開け、正面に視線を戻せば島の南北を貫く脊梁山脈がはっきりと見渡せます。

山脈の東側は厚い密林に覆われ、人の侵入を拒んでいるかのようです。第16師団はこの脊梁山脈を彷徨い、次々に飢えと病に倒れていきました。密林の中には、今も日本兵の多くの遺骨が取り残されたままです。

上空から見下ろすオルモック湾、第1師団や第26師団はこの湾から上陸しました。後に米軍が上陸し、日本軍と激しい戦闘が繰り広げられました。

まだ真新しいオルモック空港の滑走路にセスナは滑らかに着地し、レイテ慰霊の旅がはじまりました。

詳しくはこちらの記事をどうぞ
▶︎【レイテ島慰霊の旅1/3】カンギポットを往く。密林に眠る数え切れないほどの悲劇の物語
https://ceburyugaku.jp/105916/

▶︎【レイテ島慰霊の旅2/3】リモン峠を往く。50日間米軍の猛攻に耐えた第1師団の戦い
https://ceburyugaku.jp/105918/

▶︎【レイテ島慰霊の旅3/3】レイテに降る涙雨。人は生まれる時代を選ぶことは出来ない。
https://ceburyugaku.jp/105920/

この動画について
URLhttps://www.youtube.com/watch?v=yWW3EpYA5OQ
動画IDyWW3EpYA5OQ
投稿者俺のセブ島留学Pro
再生時間09:35

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